세계/국제관계론

전간기 소련 외교와 소련붕괴후의 러시아 외교

이호(李浩) 2011. 6. 28. 13:38

 

 ソ連外交( 六鹿茂夫教授)   ○○-○○○○  国際関係論専攻   ○○○ 

 

 

 戦間期ソ連外交とソ連崩壊後のロシア外交

                         その連続性と非連続性

 

    

 

 戦間期ソ連外交は、資本主義諸国の革命を志する[ 世界]革命外交を第一義的な任務とし、ソビエト政権自体を維持・存続するための外交を第二義的な任務とした時期(1917-20)と、また、世界革命外交を第一義としながらも国際情勢の展開に応じてソビエト政権の維持、存立の為の第二義的な外交が次第にその比重を増大した時期(1921-24) と、そして、社会主義建設の開始と共にスタ-リンの「一国社会主義論」がトロツキ- の「永続革命論」を抑え、社会主義体制の強化・発展が主要課題とされた時期に分けられるであろう。1)

 ソ連崩壊後のロシア外交は、エルツィンの登場と共に独立国家共同体(CIS)の誕生・ロシア国家形成の時期から始まっている。

 ここで本報告者は、戦間期ソ連外交とソ連崩壊後のロシア外交を、その連続性と非連続性の角度から対比するに至って、その二重外交と、中立化条約・不可侵条約等による安全保障の地位の確保という二つの属性から考察してみたい。

 

  一。ソ連・ロシア外交の宿命の課題-安全保障

 

 1. 戦間期‘安全' 志向のソ連外交

 (1)ソ連は19224 月、ジェノヴァ郊外のラパロで独との間に友好条約を締結した( ラパロ条約) 。この条約の条項は別に重要ではなかったが、その条約がもつ意味は深かったと言える。この条約によってソ連は大国による最初の正式の承認をかち取った、とも言われている。2)

 このラパロ条約は、ヴェルサイユ体制から疎外されたまま、債務返済など西側の圧力に苦しめられたソ連が、独と手を組んで大国としての地位を確保し、英・仏からの干渉と脅威をも吹っ飛ばす結果をもたらした、と考えられる。

 (2)しかし、1925年仏と独の間に公平な均衡を打ち出し、これを英に保証させたロカルノ条約が締結され、独がヴェルサイユ体制の受益者側に回ると、ソ連と独の友好関係にはひびがはいった。3) そこでソ連は独との関係を再調整、強化する為1926年ベルリン条約( -ソ中立条約) を結ぶに到った。

 (3)ソ連は国際紛争から隔絶したフィンランドを保証されたがって色々の手段を模索した。資本主義諸国との戦争の際に備えて、周辺地域の一つであるフィンランドの中立を確保して置こうとしたのが、ソ連の思惑であった。4)

 1930 年代に入ると、ソ連は、さらに東からは日本の脅威に西からは独のナチスの台頭に脅かされ、不可侵条約網の拡大による自己の安全保障の強化の必要性をもっと切迫に感じるようになった。

  こうした動きは、ポ-ランド、ラトヴィア、エストニア に継いで、ついに19321 21日、フィンランドとの不可侵条約を結ぶに至った。このような結果は、ソ連が1920年代以来続けて抱いてきた願望の達成を意味しているように思われる。5)

 ところで、19331 月ナチス独が成立すると、ソ連は、フィンランドを含むソ連の西側周辺地域を戦時における中立地帯として確保して置くことのみならず、自国軍がそこに進入して戦うことも出来る外郭防衛帯として、扱おうとした。

 (4)19398 23日、ソ連はナチス独と不可侵条約を締結し、不可侵条約の秘密議定書に約束された西側周辺・東欧の「勢力圏」の実現に努めた。

 しかし、19416 22日、ナチス独が対ソ攻撃を開始するにつれて (以後ソ連は、ナチス独の北欧作戦[1940 ]後、独軍が駐留しているフィランド を空爆。フィンランド政府は対ソ宣戦布告で応じる)  ソ連の周辺地域中立化のもくろみは一応挫折を味わった。6)

 

 2. ソ連崩壊後のロシアの安全保障

 共産主義体制下のソ連のグロ-バル な外交政策に代わって、ロシアにとっては特別の利益関係を持っていると考えられる地域を対象にした地域別政策( 東・中欧、独と西欧、米国、極東、太平洋など) を採用する構えを見せ付けた。7)

 しかし、西側周辺に勢力圏を作って緩衝地帯にしようとする伝統的な外交路線は、変わりなしで、ソ連崩壊後のロシアも継承しているように思われる。

 (1)エリツィンは942 月、エリツィン・ドクトリン とでも呼ばれるべき、強いロシア国家の建設を基調とする外交路線を表明した。すなわち、旧ソ連諸国が政治的には分割されたが、経済、軍事、安全保障分野ではまだロシアの勢力圏としよう、という宣言であった。

 ロシアは199112月ソ連崩壊後独立国家共同体(CIS) を構成して以来、一種の条約共同体を導いながらその近隣国と連携して来たが、エリツィン・ドクトリは盟主としてのロシアの支配的な地位を闡明したものである。8)

 このように旧ソ連圏などにロシアの勢力圏や緩衝地帯を設定しようとする試みは続いている。

 (2) (時期がちょっと違うものの) ソ連は19914 月、ル- マニアと友好条約を締結した。エリツィンは922 月フランスを訪問して友好協力条約に条印し、928 月にはブルガリアを訪問して友好協力条約に条印した。9212月には中国まで訪問して両国関係の基本原則に関する共同宣言に条印した。エリツィンは9211月ハンガリ- 938 月ポ- ランド、チェコ、スロヴァキアを続けて訪問するが、こういう風にして、隣接地域及び西側周辺地域の中立化に拍車を加えてきた。

 

  二。ソ連・ロシア外交の逃れないジレンマ-2元外交

 

 1. 戦間期ソ連の2元外交

 1920 年代ソ連外交の最大の特徴は、外務省外交とコミンテルン外交が混在する2元外交とも言える。これは革命至上主義を掲げて国際的階級闘争を煽るイデオロギ- 外交と、ヴェルサイユ体制に乗るにしよ、2国間条約網を結成するにしよ、西側との協調外交を同時に行った事を指している。

  対西側協調外務省外交は、欧州諸国との通商関係( - ソ通商協定1921-3-16 - ソ通商協定1921-5-6) 、国際貿易体制に復帰が測られたジェノヴァ国際経済会議1922-4-101922-5-19への参加、独-ソ間ラパロ条約1922-4-16 などで、正常な通商・外交関係を遂げ大国としての地位を確保する事によってソ連が国際社会に組み込まれるように働いた。

  しかし、ソ連はコミンテルン外交で独・英などの労働運動を支援し、中国革命運動をも指導してきた。1920年代後半におけるヨ- ロッパ国際政治の焦点の一つはソ-英関係の緊張であった。ジノヴィエフ書簡事件に続いて1926年の炭鉱ゼネスト、1927年のアルコス手入れ事件などで英-ソ外交関係は破局を向かって走った。9)

 

 2. ソ連崩壊後エリツィンの外交

  ゴルバチョフはペレストロイカを実行、経済を建て直し対西側協調外交を展開したことで、市場経済を一部導入したOld  Lenin時代のソ連外交と類似点があった。

 しかし、エリツィンの時代になってロシアは冷戦時代に優れた制度として西側が宣伝して来た複数政党制民主主義と市場経済を積極的に承認し、西側先進民主主義諸国と協調することを外交の第1の優先課題とした。10)

 で、一党支配制維持(イデオロギ- 外交) と対西側協調外交という属性でのソ連・ロシアの2元外交の伝統は、もはやここで終わりになっていると思われる。

 

   三。結論

 

 ここまで戦間期ソ連外交とソ連崩壊後のロシア外交を対比してみた。エリツィンの時代になって2元外交の伝統は一応終わったようだが、ロシアは第3Romeを構想する、ロシア正教のMessianismを密かに収めてきた。これが共産主義理念に代わる新しいロシアの理念になって、これからのロシアの2元外交の一つの軸に成るかも知れない。

 ロシアは冷戦のせいで重傷を負って今、病んでいる。今のロシアは、対西側協調外交を展開しながらも、外資の投資のための法的・制度的な枠組みも作られておらず、環境が整備されていない状況に置かれている。共産主義理念を対価に払って得られた対西側協調外交も、その効果が不透明である。

  ロシアは、今、混沌を重ねる中で苦戦を強いられている真っ直中にある。

 

 

 

 1) 尾上正男『ソビエト外交史』。

 2)E.H. - 衛藤瀋吉・斉藤孝訳『両大戦間における国際関係史』清水弘文堂1968年、79頁。

 3) 同上、97-101頁。

 4) 白瀬 宏「ソ連の対小国政策-フィンランドを事例として」平井友義編『ソ連対外政策の   諸様相』日本国際問題研究所、1980年、8 頁。

 5) 同上。

 6) 同上、13頁。

 7)ジョン・レ-ベンハルト「ロシア共和国の外交政策」国際シンポジウム組織委員会編『エリツィンの  対日政策』人間の科学社、1992年、227-228 頁。

 8) 岩田賢司『ソ連・ロシアと世界平和』広島平和文化センタ- 1994年、75-76 頁。

 9) 斉籐  孝『戦間期国際政治史』岩波書店、1978年、132 頁。

10)岩田賢司、前掲書、90頁。

 

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